行方不明

きのみきのまま

ぼくらが旅に出る理由

僕が旅に出る理由はだいたい100個くらいあって、と岸田くんは歌っていたけど、私の場合年齢が上がるにつれて旅に出ない理由をあげつらってばかりでせっかくの長期休暇も無駄にすることが多い。特にコロナ以降出不精に拍車がかかってちょっとした外出にもいろんな理由が必要で、ひとりでなんも考えずにとりあえず外に出るみたいなことがなくなった。
そもそも8月末から9月頭に暇になることはだいぶ前から分かっていたし、どうせ暇になるならどこかに出かけるチャンスだとも思ってはいた。ただ8月末は思いもよらぬ打ち合わせが入ったりして休みが取れていなかったのもあって、結局9月に入っても旅行の予定は立てていなかった。
そもそも私はどこに行きたいというのか。旅行に行こうとすると毎回これに悩まされる。普通の観光地にはあんまり興味がなくて、あれが見たいこれが見たいというよりは自然の中に紛れてみたいとか、この街並みを歩いてみたいとかそういうことになる。
なぜか水辺が見たいと思うことが多い。コロナ前に行った琵琶湖の影響もあるかもしれない。でもその時もなぜか水辺が見たいと思って行ったのだった。実家が川の近くにあるからだろうか。ただ実家の川のあたりはなんかやたらフォトジェニックで嘘っぽくて好かなかったんだけど。そういえば子供の頃川をみんなで囲んで手を繋ごうみたいな胡散臭いイベントがあって、胡散臭いなと思いながら知らない誰かと手を繋いだのを今思い出した。昔からそういう子供だったのを思い出すと安心する。
今回も水辺に行こうと思って、ただ湖となると行きづらいところが多いから海辺に行こうと思った。できることなら島がいい。
最初に思い浮かんだのは小豆島だった。大学時代に初めてひとりで直島に行ったとき、かなり良い体験だったので今度行くなら小豆島だなと思っていた気がする。
しかしいかんせん遠い。電車とフェリーで6時間以上かかる。飛行機なら1時間だがそれだと旅に出る意味がなくなってしまう。私が旅に出る理由は結局のところ移動中にあれこれ思いを馳せたり普段思い出さないことを思い出したりするところにある。山の稜線がだんだん近くなってきたり名前の知らない川を渡ったりつまめそうなサイズに縮小された家々に住む人々、街の向こうにきらきら見える海、トンネルとトンネルの間一瞬よぎる田んぼ。いつかみた風景、一度も見たことのない風景。
このところ見る夢は決まって小中高大専とあらゆる時代の友人が一堂に会して見たことある場所に集まっているようなものばかりだった。それは学校だったり会社だったり、どこであるにしろ私たちはあのときと変わらず楽しそうにケラケラ話している。起きた瞬間虚しくなる。もうあの日々が日常になることは一生ない。夢だったらもっといろんな場所に行ったっていいはずなのに、所詮私の夢は見たことある景色で埋め尽くされている。
7月に「君たちはどう生きるか」を見てあまりに訳が分からなかったのがショックだったのをずっと引きずっていて、先日本屋にSWITCHの君どう特集があるのを見かけて買ったんだが、読んで思ったのは「あれは宮崎駿の走馬灯だったんだな」ということ。全ての登場人物は現実で宮崎駿の周りにいた人々なのだという。訳が分からなかったのはお話として見ていたからであって、本当は走馬灯として見るべきだったのだ。
そこまで思考が至ってはたと気付いたんだけど、私の見る夢も走馬灯みたいなものなんじゃないかって。毎晩私のためだけに行われる同窓会で、あった会話なかった会話繰り返して、思い出すのは過去のことばかり。宮崎駿は走馬灯の中ですら新しい世界を創造し続けているのに、私は古い風景を延々と繰り返して虚しくなっている。
早急に新しい景色を見に行く必要がある。自分ひとりで、見たいと思った景色を。